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2019.05.08

巴里見聞録(その67)

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Quai des CélesteinからRue du Fauconnierに入り、Square Marie Trintignatに沿って歩き、小学校をみつけました。School Fauconnier校。この小学校の壁にも、«Liberté, Egalité, Franternité»と、かいてありました。まるで、実家の高校の講堂にかかっていた”文武両道”の額のように。こうやって、フランス人には、自由、平等、友愛の精神がすり込まれて行くんですね。小学校からは、元気な子供達の声が聞こえて来ます。子供はどこでも元気。
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この隣が、Collège Charlemagne。ちょうど授業が終わった時だったので、Rue Charlemaneは高校生でいっぱい。

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その先にAncien Gard Bojuinage de Parisと呼ばれている12世紀のパリの城壁跡Enceinte de Phillippe Augusteをみつけました。パリはこのような城壁に囲まれてきた街。この城壁を含み6つの城壁がパリに存在しているそうです。フランスの方はもっと詳しく知っているようですようです。

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パリの歴史遺産には、このような”Panneau Histoire de Paris"という看板があるんですね。この看板、パリ市内に767本もあるそうです。1992年に 当時のJacques Chiracパリ市長が, JCDecaux社に設置を依頼。Starck オールとよばれているそうです。このオールのデザイナーがPhilippe Starckだからだそうです。

Historie de Paris Enceinte de Philippe Auguste

En 1190, avant son départ pour la troisième croisade, Philippe Auguste<1165-1223>demande aux habitants de contribuer à la sécurité de la ville par la construction d'une muraille d'environ 5 km, achevée vers 1210. Cette courtine, haute de dix mètres et couronnée d'un chemin de ronde crénelé, est percée d'une dizaine de portes.Bornée à l'ouest par la forteresse du Louvre, édifiée pour la protéger dans les premières années du XIIIe siècle, à l'est par la place de Grève, au nord par les Halles, et au sud par le bourg Saint-Geneviève, elle définit une capitale de 250 hectares : désormais, le palais, le trésor et les archives s'y trouvent fixés à demeure, même si le roi n'y réside pas toujours. Il s'agit de la première tentative d'union des trois quartiers parisiens : la « Cité », cœur religieux, administratif et judiciaire, la « Ville », pôle économique situé autour des ports de la rive droite, et « l’Université » naissante, rive gauche.

パリの歴史 フィリップ・オーギュストの城壁

1190年、第三次十字軍に出発する前に、フィリップ・オーギュスト(1165-1223)は、住民に対し5キロメートルに渡る市の城壁を構築すること指示した。完成は1210年ころ。この城壁は、高さは約10メートル、上部に通行路があり、1ダースほどの門をもっていた。
13世紀に同時期にたてられたルーブル砦が西端、 la place de Grèveが東端, les Hallesが北端, le bourg Saint-Genevièveが南端, 250ヘクタールの面積を囲んでいた : 爾来、宮殿、宝物、古文書が、既にその王が現在ここに住んでいないにもかかわらず、ここに保存されている。
これは、パリ近郊の人々を統合したはじめての試みであった。 それは、« Cité »としての宗教, 行政 司法などの中心地域と、 « Ville »としての経済活動の主軸としてのセーヌ川右岸地域、« l’Université » として新たに生まれたセーヌ川左岸地域、である。

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